たひお備忘録

趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】

『探訪!日本100名城』 44/100城目 徳島城 【平成27年1月10日】

「国史跡 徳島城跡」の石碑

 1月に行った四国(とちょっとだけ広島)旅行の2日目。この日最初に向かったのは、徳島県徳島市にある徳島城です。


徳島城について

 徳島城は、徳島県徳島市にある梯郭式の平山城。

 現在、徳島城がある山はその名も「城山」と呼ばれているのですが、元々そこには、鎌倉時代の1272年(文永9年)に当地の地頭として来任した河野通純が城を築いたとも、その後の室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之が南朝方勢力を破った際に城を築いたとも言われ、また、城山も以前は、西から見た姿がイノシシに似るため猪山と呼ばれたとも、細川頼之が当地の風光を中国の渭水に例え渭(い)山と呼んだとも(こちらは後付けの説という話もあるそうですが…。)言われています。

 その後、時代は下って戦国時代。四国は群雄が覇を競っていたのですが、阿波国については土佐の長宗我部元親が侵攻して領土としていたところでありました。ですが天正13年(1585年)、豊臣秀吉が四国征伐を行い、その結果元親は秀吉に降伏。四国平定後、阿波国の大部分は、隣り合う長宗我部氏への抑えとして四国征伐でも戦功を上げた秀吉股肱の家臣である蜂須賀正勝(通称の「小六」の方が有名ですよね。)に与えられることになったのですが、正勝は自らの高齢と、秀吉の側近として仕えたいことを理由に辞退。その結果、正勝の嫡男である蜂須賀家政に与えられることになりました。

 家政は当初、現在の徳島市西部にあった一宮城という山城を居城とし改修も行いますが、渭山にも徳島城の築城を開始。翌天正14年(1586年)に完成すると、居城をそちらに移しました。その後、家政は関ヶ原の戦いの際に領地を豊臣秀頼に返納して隠居し、徳川家康の養女を嫁に迎えていた嫡子の至鎮(よししげ)が東軍に付くと言うかたちを取り、戦後も阿波国を安堵されした。そして江戸時代に入ると、至鎮を藩主として徳島藩が立藩し徳島城は藩庁に。以降、蜂須賀氏が代々城主を務め明治維新を迎えました。

 明治時代に入り、明治6年(1873年)の廃城令では存城処分となり、鷲之門以外の建築物は取り壊されてしまいました。その後明治38年(1905年)、城跡の土地を蜂須賀家から買い取り、徳島公園(現 徳島中央公園)として整備開始。明治40年(1907年)には旧徳島城表御殿庭園が再建され、明治43年(1910年)には一般に開放されました。昭和16年(1941年)には表御殿庭園が国の名勝に指定されたのですが、太平洋戦争の末期にあった徳島大空襲によって被害を受け、唯一残っていた藩政時代の建物である鷲之門も焼失してしまいました。そして戦後も、公園(昭和52年(1977年)に徳島中央公園に改名)や公共施設用地として使用されていたのですが、平成元年(1989年)には鷲之門が復元。平成18年(2006年)には国の史跡に指定されました。

実際に行ってみた

【高松自動車道川之江JCT】
高松自動車道川之江JCT
【徳島中央公園・市立徳島城博物館の案内看板】
徳島中央公園・市立徳島城博物館の案内看板
【徳島中央公園東側駐車場】
徳島中央公園東側駐車場
 四国中央市の宿を出発し、高速道路をひたすら西進。途中、徳島道吉野川SAで朝食をいただきつつ、徳島ICで高速を降りた後は国道11号で吉野川を渡って徳島の市街地へ。程なく、案内看板も現れ、わりとスムースにお城のある徳島中央公園の東側駐車場に到着しました。

【助任川と海蝕痕】
助任川と海蝕痕
【城山の貝塚】
城山の貝塚
 それで駐車場にレンタカーを置いて早速登城といきたいところなのですが、その前にこちらを。駐車場というかお城のある城山のすぐ北側に流れているのが、かつてお城の堀代わりだった助任(すけとう)川。また、そこに接する城山の外縁部の岩肌には、縄文時代早~前期である約5000~6000千年前、ここが海だった事を示す海蝕痕が残っています。また、当地は昔から人跡の有った所らしく、この城山には縄文時代後~晩期の約4000~2300千年前ものと見られる貝塚が見つかったそうで。

【数寄屋橋】
数寄屋橋
【堀と石垣(数寄屋橋から)】
堀と石垣(数寄屋橋から)
【堀と石垣(下乗門付近)】
堀と石垣(下乗門付近)
 それらを見つつ南下すると、立派な堀と石垣が現れました。ここまで、いかにもな遺構にはお目に掛かっていなかったので、「おお!」と一気にテンションが。ちなみに、徳島城の石垣に使われている石材は、一見緑がかっているものが多いのですが、主に市内にある眉山の三波川変成岩(緑泥石片岩)が使われているとのこと。またこの堀の水は汽水(淡水と海水が混ざり合った水)らしく、コノシロやボラ、チヌにマハゼ、ウナギにスズキなど、汽水域に生息する魚が生息しているそうです。(実際に魚影は見かけたけど、何の魚は特定できませんでした…。)

【鷲の門】
鷲の門
  堀に沿って更に南下すると、ポツンという感じで立派な門が。これか鷲の門で、真偽不明ながら一説には幕府に「鷲を飼う為の建物」と届けたのでその名が付いたとも。で、オリジナルは太平洋戦争時の徳島大空襲で焼失してしまったのですが、平成元年に復元されました。

【下乗橋と大手門跡】
下乗橋と大手門跡
【大手門跡】
大手門跡
【太鼓櫓跡】
太鼓櫓跡
 鷲の門をくぐった先、右手方向にある堀に架かった橋が、かつては木製の太鼓橋だったという下乗橋。名前のとおり、ここで駕籠から降りて徒歩で渡ったそうで。で、その奥が徳島城の大手門で、更にその奥は殿様の住む御殿になっていたそうです。また、大手門向かって左側の石垣の上は、かつて太鼓櫓が有ったそうで。

【跨線橋から見たJR徳島駅方面】
跨線橋から見たJR徳島駅方面
【舌石】
舌石
【舌石の説明】
舌石の説明
 大手門から入って太鼓櫓方面に進むと跨線橋でJR徳島線を跨ぐのですが、そのJR徳島線の線路が敷かれているところは、城の南側の堀代わりであった寺島川だったそうです。(お城側にほんの少しだけ水路っぽいものが残っていましたが。)それで寺島川に沿って石垣を積み、その上には塀がかけられていたのですが、現在も残る石垣の所々には、屏風折塀の突出部を支えた舌石という石もありました。

【市立徳島城博物館】
市立徳島城博物館
 往時は大手門を入ると広大な御殿が建っていて、他のお城の御殿同様にパブリックな表御殿、プライベートな奥御殿と別れていたそうなのですが、その表御殿跡に現在建っているのが、市立徳島城博物館。開館が午前9時30分で着いたのが午前9時過ぎだということで、暫し待ってからの入館となりました。ちなみに、日本100名城スタンプラリーのスタンプはこちらに。

【旧徳島城表御殿庭園】
旧徳島城表御殿庭園
 市立徳島城博物館に隣接して在るのが、現存遺構の旧徳島城表御殿庭園。庭の良し悪しは正直わからないのですが、結構立派なお庭でした。

【弁天池】
弁天池
 博物館を見学し、お庭も堪能したので、残るは城山へのアタックとなったのですが、その登り口に向かう途中にあるのがこちらの弁天池。かつてはこの池の畔に弁天様を祀る弁天社が在ったのでその名が付いたそうで。ちなみにこれも現存遺構だったりします。

【8620形蒸気機関車】
8620形蒸気機関車
 城山の登り口付近には、かつて当地で活躍した8620(ハチロク)形蒸気機関車が展示してありました。元鉄の血が騒ぐ物件なのですが、逆光でマトモな写真が撮れなかったのは個人的に痛恨事。

【西坂口】
西坂口
 現在いる表側から城山へと登るルートは先述の弁天池付近からの東坂口と、蒸気機関車が置いてある付近からの西坂口の2つがあるのですが、今回は西坂口からアタックすることに。で、城山に足を踏み入れた途端、先程までとは全く違った雰囲気が。

【西三の丸門跡】
西三の丸門跡
【内側から見た西三の丸門跡】
内側から見た西三の丸門跡
 西坂口から階段をヒーコラ言いながら登ると、西三の丸に到着。この付近より本丸にかけて、先述の三波川変成岩(緑泥石片岩)が使用された石垣が連続で現れ、結構な見応えです。また三の丸の西側部分は水道施設の城山配水池を作る際一部取り壊されてしまったとのことで。それにしても、市街地にある平山城は、必ずと言って良い程水道の配水池が有りますね。(極めて合理的選択だと思いますが。)

【西二の丸入口付近】
西二の丸入口付近
【二の丸帳櫓の櫓台】
二の丸帳櫓の櫓台
【西二の丸跡】
西二の丸跡
 西三の丸の次は西二の丸。こちらも石垣が堪能できました。

【本丸入口付近】
本丸入口付近
【本丸跡】
本丸跡
【登り石垣?】
登り石垣?
 そしてとうとうやって来た本丸跡。結構な広さですね。で、当然のことながらここが城山の一番高いところで、標高は61.7m(麓の案内板より)。また、本丸と呼ばれるだけあって、元々はここに天守が在ったそうなのですが、元和年間(1615~1624年)には取り壊されてしまったそうで。それと、本丸から下方向を見た時に登り石垣らしい遺構を発見したのですが、特に説明板とか無かったので、実際に何なのかはわかりませんでした。(もう少しお城を見るスキルを上げなきゃ駄目ですね…。)

【東二の丸】
東二の丸
【東二の丸から見た吉野川河口方向(手前は助任川)】
東二の丸から見た吉野川河口方向(手前は助任川)
 本丸の旧天守が取り壊されて間もなく、大用天守の御三階櫓が建てられたのが、本丸から東側にちょっと降りたところにある東二の丸。ここに代用天守が建てられた理由はハッキリしていないそうなのですが、ここからは吉野川河口が良く見えますね。

【本丸裏手の石垣】
本丸裏手の石垣
【駐車場方向へと降りる小径】
駐車場方向へと降りる小径
 東二の丸を見た後は一度本丸に戻り、本丸北側の小径から駐車場へと戻りました。ちなみにこの小径は元々、本丸と城山下の西の丸を繋ぐ通路っぽいです。

感想とかまとめとか

 というわけで徳島城だったのですが、堀や表御殿庭園などのある平地部と、本丸や二の丸など城山内では、全く表情が違うお城という印象を受けました。それと今回は、日本100名城を目的に来たため徳島城だけ見て終わってしまったのですが、出来ることなら、徳島城の前に蜂須賀家政が入場した一宮城もセットで見たかったですね。なのでいつかまた…。

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