趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
宇和島城は、愛媛県宇和島市にある梯郭式の平山城。いわゆる現存12天守のうちの一つです。
現在残っているお城は、戦国時代の末期から江戸時代の初期にかけて築かれたものなのですが、それより遙か以前の平安時代、瀬戸内地方を中心に起きた藤原純友の乱の際、警固使の橘遠保が、現在は城山と呼ばれる当地に砦を築いたとされています。ちなみに、今でこそお城の周りは市街地となっていますが、江戸時代までは城山の西側は海に面した要害となっていたそうで。
やがて宇和地方は西園寺氏が支配することになり、その際、当地に砦が築かれ、板島丸串城(丸串城とも)と称されたのですが、記録に登場するのは戦国時代の天文15年(1546年)、道免城主であった家藤監物が城に入り、豊後の大友氏や土佐の長宗我部氏の侵攻を退けたというもの。その後天正3年(1575年)、城主は西園寺宣久に変わりますが5年後に病没したり、また天正12年(1584年)には西園寺氏も長宗我部氏に降ったりしたのですが、その翌年の天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国討伐によって長宗我部氏は敗れ、宇和地方を含む伊予国は小早川隆景に与えられました。(ただ、隆景は毛利家の家臣というスタンスを貫いたため、一度毛利家に与えられた伊予国を毛利家から授かるという建前をとり、自身の本拠は三原に置いたままだったそうですが。)
それで隆景は板島丸串城に城代を置き、旧西園寺家の家臣を用いるなどして伊予国を支配したのですが、「騒動も叛乱も無い」とルイス・フロイスが絶賛するほどに善政を敷いたそうで。ですが天正15年(1587年)、 隆景は筑前国に転封となり、替わって戸田勝隆が城代を置いて支配したのですが、これが調べた限りでは隆景時代とは正反対の圧政というか…。で、勝隆は秀吉の朝鮮出兵(文禄の役のほう)の際に朝鮮に渡りますが、文禄3年(1594年)、陣中で病没してしまいました。
文禄の役の後、替わって当地を領し城主となったのが、藤堂高虎。文禄4年(1595年)に7万石で封ぜられると、翌慶長元年(1596年)、城の大改修に着手。(もっとも、城の改修自体は戸田勝隆時代にも行われたらしいのですが。)この時の縄張りが、現在も残るお城のベースになっているそうです。また慶長6年(1601年)完成後、城の名前も宇和島城と改めましたが、実はその前年の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの功績によって、宇和島領を含む今治20万石に加増されていたのですが、今治に移ったのは宇和島城の完成を待ってからだったそうです。
江戸時代に入り、慶長13年(1608年)に高虎は更に加増のうえ伊勢の津藩主に任ぜられ、替わりに津藩主だった富田信高が城主になったのですが、慶長18年(1613年)に改易に。(余談ですが、幕府内の武断派・文治派の政争に端を発した大久保長安事件の影響を受けたらしいです。)その後当地は幕府直轄領となり城代が置かれたのですが、翌慶長19年(1614年) 伊達政宗の庶長子である伊達秀宗が10万石で入封し宇和島藩が成立。(ただし、富田信高を藩祖とする場合もあるそうで。)宇和島城は藩庁となりました。(ちなみに、秀宗が実際にお国入りしたのは翌年とのこと。)以降、幕末まで宇和島伊達家が代々藩主、そして城主をつとめることになるのですが、寛文2年(1662年)には、 2代藩主である宗利が、老朽化した城の改修に着手。寛文11年(1671年)に竣工したのですが、その際、天守を修築の名目で、現在も残る独立式層塔型3重3階に建て替えました。
そして時代は一気に降って明治時代。廃城令で宇和島城は存城(以前にも何度か書きましたが、存城とは建造物の保存が目的ではなく、「陸軍の兵営地等として旧来の城郭建造物、石垣、樹木等を整理すべし」とのこと。)となり陸軍省の所管となった後、明治時代後期頃から櫓や城門などの解体が始まったのですが、昭和9年(1934年)に天守と大手門(追手門)が旧国宝(現在は文化財保護法の施行により重要文化財)に指定。昭和12年(1937年)には国の史跡に指定されたのですが、太平洋戦争末期の空襲によって大手門は残念ながら焼失してしまいました。また戦後は天守と城山の大部分がこれまで所有していた伊達家から宇和島市に寄贈され、昭和35年(1960年)から3年間にわたって天守を解体修理。平成6年(1997年)からは宇和島城保存整備事業によって石垣などの修復が行われ、現在も続けられています。
【宇和島城入り口の看板】
【宇和島市営城山下駐車場】
そんな宇和島城ですが、今回は空路で松山に入り、そこからレンタカーで宇和島まで一直線。市内で美味しい昼食をいただいてからお伺いしました。それで、写真の入口からお城に入ると、右手に市営駐車場があったのでそこにレンタカーを駐車。ここに付いたのは丁度お昼頃だったのですが、今日は平日とあってか、駐車スペースにはわりと余裕が。ちなみに、このあたり、かつては三の丸で、駐車場の反対側は御殿が建っていたそうです。
【闘牛のポスター】
それで靴を持参のトレッキングシューズに履き替えて早速登城しようと思ったのですが、駐車場のフェンスには宇和島名物の闘牛のポスターが貼ってありました。それによれば、正月場所は終わったばかりで、次回は4月5日から春場所だそうで。
【桑折家武家長屋門】
こちらは城山の北東方向からの登城口になるのですが、そこには宇和島藩家老であった桑折(こおり)家の長屋門を移築したもの。道路拡張に伴って主要部分だけを移築したものなのですが、市の文化財に指定されています。それにしても、桑折家って、いかにも伊達家の家臣というお名前ですねぇ。(確か、伊達宗家の重臣にも桑折氏という方がいらっしゃいましたというか、一説では宇和島伊達家の初代当主、伊達秀宗公のお母さんとも言われるの飯坂の局とも繋がりが深かったかと。)それから、門の前には、今年(平成27年)が宇和島伊達家初代当主伊達秀宗公がお国入りしてから400年になるのを記念して開催される『宇和島立て400年祭』の幟旗が立てられていました。
【登城路入口】
【登城路に入ったところ】
門をくぐるとすぐさまつづら折りの石垣がありテンションが上がるのですが、その前に案内看板が有り、「天守まで急な石段で四六〇メートル(井戸丸経由)ゆっくり廻って七七〇メートル(児童公園経由)」とあります。で、ここはひとつ(登城に関してはドMなので)当然、急な石段のほうをチョイス。っていうか、そちらの方が、かつての登城路であったと思われたので。で、急と言ってもびっくりするような勾配ではなかったので、正直、ちょっとホっとしましたが、路の両脇は木々が鬱蒼と生い茂り、それら植物の雰囲気から宇和島が南国であることを実感。
【井戸丸付近の石垣】
【井戸丸門跡】
【井戸丸の井戸】
そんな石段を登り初めてすぐ、櫓台と思われる立派な石垣が。このあたりが井戸丸で、他にも門や、城内でも重要な井戸があったそうで。
【井戸丸から上へと登る登城路】
井戸丸から更に登ると途中で路が、二の丸方向と藤兵衛丸方向の二手に分かれるのですが、城山郷土館のある藤兵衛丸方向へ。
【城山郷土館(旧山里倉庫)】
【穂積陳重・八束兄弟生家長屋門】
【藤兵衛丸外周の石垣】
というわけで藤兵衛丸の城山郷土館を見学。ちなみにこちらの建物、弘化2年(1845年)に三之丸に建てられた武器庫を移築したもので、現存例の少ない稀少な建物とのこと。また、その隣には、こちらも移築建物である穂積陳重・八束兄弟生家長屋門があります。また、藤兵衛丸外周には巡らせてある低い石垣が残っていました。
【雷門跡】
【長門丸から見た藤兵衛丸石垣】
【長門丸】
【北角矢倉跡】
【長門丸門跡付近の石垣】
藤兵衛丸を後にして次に向かったのは、雷門跡から立派な石段を降りて、現在は児童公園になっている長門丸へ。かなり広い曲輪ですね。また、その北端にある北角矢倉跡には櫓台が残っていました。
【二の丸へと続く登城路】
【三の門跡と二の門跡】
その後、代右衛門丸方向に向かおうとしたのですが、修復工事中のため残念ながら立入禁止になっていました。なので改めてというか気を取り直して、雷門跡から先程登ってきた登城路との合流点を過ぎ、三の門跡でヘアピンカープを曲がって二の丸へと向かうのですが、三の門からあまり距離を置かずに二の丸入口の二の門があったようですね。
【二の丸】
【二ノ丸から見た本丸】
二の丸はかなりコンパクトな印象というか、本丸の隅のちょっとだけを一段下げたような印象。
【本丸の御台所跡】
【天守】
【天守から見た本丸と港方向】
そしてようやく、現存天守が鎮座する本丸へ。その天守、コンパクトながらも存在感ものすごく、もう何も言うことはございません、というか感慨無量でございます。ちなみに、日本100名城スタンプラリーのスタンプは、この天守内にあります。それで天守に入り、最上階から港方向を眺めると、リアス式海岸の奥にある高台という戦略上重要であったであろう場所に、このお城があることを実感できます。現在は埋め立てた土地に建物群が密集していますが、ちょっとだけ想像力を働かせると、当時の景色が目に浮かびますね。
【代右衛門丸南角矢倉の櫓台】
【式部丸入口付近】
【式部丸の石垣】
天守を拝んだ後は、来た時と逆側の登城口を目指し下山。途中、今回良く見られなかった代右衛門丸の櫓台を下から眺めたりしたのですが、その先の式部丸は修復中らしくままブルーシートに覆われ、入口も塞がれていました。それにしても、この辺りの石垣は、反対側よりも更に苔むしていて、雰囲気抜群すぎます。
【登城路とその脇の石垣】
【上り立ち門からの登城口付近】
その後も登城路脇には低い石垣が続いているのですが、こちらも先程と同じく苔むし方が凄いですね。で、そのまま下って木々を抜けると登城口に。
【上り立ち門】
城の搦手道口になる城山の南からの登城口にあるのが、現存する薬医門としては最大級であるだけでなく創建年代が最古の慶長期に遡る可能性を秘めたという上り立ち門。現在は市の指定文化財です。で、今回の登城はここまでにして、例の五角形という城山の麓を半周して駐車場に戻りました。
というわけで宇和島城だったのですが、伊達時代に築かれた現存天守はもちろんのこと、点在する苔むした石垣や曲輪の遺構など、城山全体の雰囲気がとても素晴らしかったですね。城山自体は結構コンパクトなのですが、その中に、かの築城の名手である藤堂高虎公の知恵や工夫がギュっと詰まっている感じがして、かなりワクワクするものがありました。また城を含めた街の雰囲気も良かったので、またいつか、今回修復中で見られなかったところを見るのにお伺いした時は、ゆっくりと町歩きしてみたいと思います。
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