趣味の活動記録。
【タイトル題字:細身のシャイボーイ様】
前の記事でもちょこっと書いたのですが、今回、忍城にお伺いするにあたって、石田三成が行った水攻めの遺構も合わせて見たいなぁということで、この日最後に向かったのが、行田市と鴻巣市の境あたりにある石田堤です。
豊臣秀吉が天下統一の最終段階に後北条氏に対して行ったのが、天正18年(1590年)の小田原征伐ですが、その一環として後北条氏に付く関東諸大名の居城も攻撃対象となりました。それでそのうちの一つが、成田氏の居城である武蔵国の忍城。
ここを、石田三成を総大将とした豊臣勢が攻めたのですが、守備側の10倍近くの兵力をもって攻め、しかも水攻めまでしたにもかかわらず落とすのに失敗したと、石田三成の戦下手、ひいては将としての能力のなさを示すエピソードとして有名というか定説になってしまいました。しかし、これは後世、関ヶ原の戦いで敵対した徳川側が、後にプロパガンダとして三成を貶めまくったため定着してしまった説で、実際に現場を見た三成は地形的に水攻めだと厳しいと思い、だからといって普通に攻めようにも味方は水攻めをやるのが前提なのでとても消極的。結果的に無理のあった水攻めを強行した結果失敗してしまったのではないかということが、当時の書状などを元にした中井俊一郎さんの考察で示されています。(以前、ネットで色々と探していた時にその文章を読んで、「これだ!」と膝を打ちまくった記憶が。)
それで、その水攻めの際に築かれた堤防が、後に石田堤と呼ばれるもの。全長28km(14kmとも)に及ぶ堤をわずか5日(一週間とも)で作ったとされていますが、いくら自然堤防や微高地を利用したとしても、実際にはもっと時間が掛かったと思われます。それで、いざ利根川と荒川から水を引き込んでも忍城は水没せず、逆にその後の雨による増水により堤は決壊したため水攻めは失敗するのですが、その遺構は(一部ですが)後世に残ることとなりました。
冒頭で書いたとおり、この日は忍城の後、丸墓山、そして石田堤とまわる計画を立てました。
これの前の埼玉古墳群の記事と一部重複するのですが、忍城攻めの時に石田三成が本陣を置いたとされるのが、埼玉古墳群の中にある丸墓山古墳。当時から丸墓山と呼ばれていたそうです。
【石田堤方向から見た丸墓山】
丸墓山古墳は、埼玉古墳群の中で最も高さのある古墳で、高さは18.9m。また、古墳から南に延びる通路(この写真の撮影場所)は、石田堤の跡だと言われています
【丸墓山の頂上部から忍城方向を望む】
【ズームしてみた】
丸墓山古墳は頂上部まで登ることが出来るのですが、そこから忍城方向を見ると、忍城の周囲は地形的に高さのある物がなく、かといって盆地になっているわけでもないので、城を水攻めにするには、相当な高さと長さを持つ堤が必要ということがわかります。
丸墓山を含む埼玉古墳群を見た後は、行田市と隣接する鴻巣市に残る石田堤へ。
【石田堤(行田市側)】
【反対側から見たところ】
というわけでいきなりですが、石田堤。こちらは行田市側で、自然堤防の上に1~2mほど盛り土をしたもので、約250mほど現存しています。また、江戸時代にはこの堤に沿って日光裏街道が整備され、堤に植えられた松並木は樹齢約300年と、往時を偲ばせるものになっているとのこと。ちなみに、すぐ近くには駐車場もありました。
【石田堤(鴻巣市側)】
【堤の上部】
行田市側の石田堤から100mほど歩いて橋を渡ったところが、鴻巣市の石田堤史跡公園。こちらは、約120mほど現存しています。また、史跡公園として、堤の断面が見られるなど色々と整備されている(しかし、それらを撮った写真が、黄昏のお陰でほとんど使い物にならないのばかりになってしまったのは大失態でした…。)のですが、その中のある仕掛けで有名な方が出てきたのにはちょっとびっくりしました
というわけで、石田堤だったのですが、当時に思いを馳せると色々と切なくなってくる場所でした。っていうか太閤殿下、自分の力を見せつける為に、(ここに限ったことじゃないけど)三成さんにどんだけ無理ゲーさせようとしたんだよ…。それを律儀にやろうとしたところに、三成さんの人となりを見るような気がしました。ちなみに私、歴史上の人物では、石田三成公を、一番と言っていいくらいリスペクトしていますので。
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